院長挨拶
医療法人社団東風会 院長 守屋啓吾
幸運と人に恵まれて今日に至っています。
モットーは「当たり前のことを当たり前に」「迷ったらGO!]
野心はあるが邪心のない男です。
どうぞよろしくお願いします。
所属学会
所属研究会
- CHP研究会
- Well-being
- 山田矯正研究会
- 床矯正研究会
- 歯科学研究所インプラント部会
(インプラント認定医) - 抗加齢歯科医学研究会
略歴
- 昭和60年大阪大学歯学部卒業
- 卒業後、補綴科に残り、その後、川崎医科大学口腔外科で研修
- 1988年倉敷市にて守屋歯科医院開業
- 1995年スマイル歯科クリニックを開設(医療法人化)
- 1998年マーメイド歯科クリニックを開設
- 2000年ひまわり歯科クリニックを開設
- 2003年パールデンタルクリニック開設
- 2005年コスモス歯科クリニック開設
- 2006年グレイスデンタルクリニック開設
- 2008年
イエテボリ大学歯学部大学院サーレンスカ病院顎顔面外科 短期留学。
アストラテックインプラント本社(スウェーデン)にて、最新のインプラントシステムについて研修 - 2009年
デンタルサロンハビーナ開設
イエテボリ大学歯学部大学院サーレンスカ病院 短期留学
SWEDEN アストラテック社での最新のインプラントの講義、研修世界最先端のインプラント治療を研修
- ITIインプラントcertificate修得
- プラトンインプラントcertificate修得
- アストラテックインプラントcertificate修得
技術研修病院・機関
- スウェーデン イエテボリ大学歯学部サールグレンスカ病院顎顔面外科
- 岡山大学歯科麻酔科
守屋啓吾の歴史①
歯科医師になるきっかけ~祖父のこと~
開業医をしているとよく家が歯医者かどうか聞かれる。
うちのお祖父さんは歯医者なのだが
親父はサラリーマンだった。
お祖父さんはとても優しい人で
怒った顔を見たことがほとんどない。
ぼくが怒られた記憶といえば、
そのつるつるにそり上げた頭を
肩車されたぼくがポンポン叩いた時のことぐらいだ。
そのお祖父さん仕事場が家の離れにあり
僕の遊び場でもあった。
当時は歯医者が自分で金冠とか作っていたので
そこには技工の設備もあり、
子どもにとってはわくわくするものであふれていた。
ぼくはそんなものを見て育ったからかどうかは知らないが、
物を作ったり絵を描いたりすることが大好きな少年だった。
近所の悪がきも今では患者さんに~幼少期~
親父の転勤で幼稚園の時に広島にアパート暮らしとなった。
ちょうど同年代の少年が3人いたので遊ぶ相手には事欠かず、
隣の空き地で「基地」を作ったり、
ザリガニ捕りや昆虫採集が楽しかった記憶がある。
小学校2年生で岡山に戻ってきたのだが、
言葉も違うし制服も違うので近所の悪がきによくいじめられた。
その悪がきも今では患者さんで通ってくれている
絵と習字を習い「科学と学習」の付録に夢中になり、
プラモデルを作り近所の野山でよく遊んだ。
中学時代
親父は忙しい人で、
あまり普段あまり一緒に遊んだ記憶がない。
その代わり、時々キャンプに連れて行ってくれた。
それが楽しくてアウトドアが好きになっていった。
中学の時はキャンプしたいためにボーイスカウト部に入った。
ロープの結紮法とか手旗信号とかが面白く、
キャンプでテントを張ったり
料理を作ったりするのは当然大好きだった。
中学の時に石橋先生という国語の先生と出会う。
この人がとても怖い先生でとんでもない量の課題を生徒に課す。
予習ノートと読書感想文が特にヘビーで、
読書感想文は「毎月5冊」だった。
そのおかげで本を読むこと文章を書くことは苦ではなくなった。
今ではとても感謝している。
漠然と歯医者を目指す~高校時代~
当時高校入試は総合選抜で私立高校というのも当時はなかったので、
みな当然のように県立の普通科に行くことになる。
ぼくは倉敷南高校という出来たばかりの高校に行くことになった。
ぼくらが2期生で上には1学年しか先輩はいなかった。
家から高校までは6kmぐらい、毎朝自転車で飛ばした。
好きな科目は物理と古文で特に物理が好きだった。
「物理学者」になることも考えたが
それほど剃刀のように切れる頭でもなかったので、
もしなっていても大成はしていないだろう。
当時ある程度勉強のできる子は医学部歯学部に進学を指導されていたように思う。
ただ自分としては医者になることも考えたが性格的に向いてないかもと思った。
手先は器用なので歯医者にはいいかもしれないと漠然とは思っていた。
6畳一間の風呂なしアパート~大学時代~
阪大に6倍もの倍率を運良く通り、
入学して見つけたアパートは
西日しか当らない6畳一間の風呂なしアパート。
ここにこの後7年間住むことになる。
貧乏生活ではあったが
将来に対する明るい希望があったので苦には思わなかった。
クラブ活動は男声合唱団と空手道部を選んだ。
合唱は中学の時少ししていたのと
「合コンが一番多い」という誘い言葉で。
空手はもちろん憧れていたブルースリーや大山倍達の影響。
男声合唱団での2年間は本当に勉強になった。
ここには個性的で優秀な人が多く、
部長選挙の際の応援演説や文集の出来の秀逸さには舌を巻いた。
指揮者のカリスマ性や才能にも驚いた。
さて空手の方であるがもともと何も運動もしてこなかったので、
体力も運動神経もない。
きつい練習とどんな状況でも
相手に向かっていかなければならない経験は
繊細な少年のこころをかなりたくましくしてくれた。
歯や骨を折ることも多々あり
当然のことながら少々のことは気にならなくなった。
医局時代
晴れて大学を卒業して入局先に選んだのは
「第一補綴科」クラウン・ブリッジ科。
一番ぼくにとって「歯医者らしい」イメージがあったからだが…
入局してすぐにA先生にこう言われてしまった。
「君は相当努力しなければだめだね」
学生時代の成績があまり良くなかったためだ
昼間は大学、派遣先で診療し、
夜は自分で見つけたバイト先で診療し仕事の合間に補綴物を作り、
雑務をするという生活。
このころはローソンの上のワンルームマンションに暮らしていたのだが
ローソンの弁当ばかり食べる日々が続いていた。
夜のバイト先の先生は僕と同い年なのだが、
お父さんが在学中に亡くなり
後を継ぐために方々見学しながら
優秀な先生方のノウハウを吸収して開業された方で
臨床のいろんなことを教えていただいた。
ここで教わったことは今でも役に立つことが多くとても感謝している。
インプラントとの出会い~医局を1年過ぎた頃~
さて医局で1年過ぎたころ、
先輩のK原先生が「研究室を変わったらどうだろうか?」
という提案をしてくれた。
そのころどちらかというと
マイナーな研究室だったインプラントの方へ変わることを示唆してくれたのだ。
このK原先生にもとても感謝している。
彼の助言がどれほど大きな意味を持っていたかは計り知れない。
インプラント合金の生体適合性について研究し、
これは今でも自分の財産となっている。
そうこうするうちに個人的な事情で岡山に帰らなくてはならなくなった。
大学を辞めて帰ってきたぼくを受け入れてくれたのは川崎医大の口腔外科。
できることは何でもやらせていただいた。
同僚や先輩はとてもユニークで優秀な人が多く刺激的な環境であった。
私生活でも充実しており忘れられない1年間となった。
自信満々でいよいよ開業
さて開業ということで実は自信満々。
「患者が来すぎたらどうしよう?」
というぐらいではあったが、
さすがにその心配は無用であった。
スタッフは3人
(衛生士1名、受付1名、技工士兼助手1名)
でスタートしたのだが、
1年後には一人を除いて辞めてしまった。
最初の数年はマネージメントの面でも
いろいろ勉強させられることが起きた。
少し落ち着いたころ
一度も行ったことがなかった海外に「院内旅行」として
ハワイに行くことにした。
「日本人ばかりの観光地」としてあまり何も期待していなかったのだが
これは僕にとっては衝撃的な経験でこの後何度も行くことになる。
分院展開について
30歳で青年会議所に入りこれまた刺激的な生活を送ることになる。
当時バブルの余韻が残っていたこともあり、
自分が働かないとお金にならない歯医者とは違い
いわゆる権利的な収入を持ちゴルフ三昧の人々を見るにつけ
何か自分にもできないだろうかと考えるようになった。
そのひとつが分院展開。
分院のきっかけになったのは知り合いからの一言だった。
彼が所有するビルの1階のテナントが空いたので
「歯医者でもどう?」と提案されたのだ。
渡辺先生、つまようじ法との出会い
さてその前に忘れてはいけないのが予防歯科の渡辺先生との出会いだ。
たまたま阪大の同窓会でお話を聞き、
「これからは予防が大事」とは思っていたこともあって、
渡辺先生のお話にはとても興味をそそられた。
精一杯精密な治療をしても
ちゃんとメンテナンスしないと10年後には悲惨なことになっている。
そんな経験が予防というものに向かわせたのだ。
渡辺先生から聞いた予防の話はある意味衝撃的だった。
「歯磨きで虫歯は防げない」
古今東西さまざまな介入試験が行われたが
フッ素抜きの歯磨き指導で
虫歯が減ったという事実はないのだ。
渡辺先生からは
「岡山には岡大もPMJもあるが
倉敷には予防歯科センターがない。
君が作ったらどうだ?」
という話を聞き、
これが先ほどの分院の話と結びついたのだ。
分院誕生
こうして誕生した「スマイル歯科クリニック」は
順調とは言えない滑り出しではあったが
2年ほどで何とか軌道に乗ることができた。
その後いい場所を見つけては
数年に1件ずつ新しい医院を展開していった。
各分院はそれぞれ僕にとって実験的な医院で、
それぞれ違ったコンセプトで作られたものだ。
その場所や顧客層また院長、スタッフのキャラクターによって
自然とそれぞれの特徴を出したものになってきている。
中国
趣味の太極拳の旅行などで
2001年、2002年に中国を見て回ったことは大きな刺激になった。
急激な勢いで発展する中国。
その中で歯科はまだまだ遅れている分野。
これは大きなビジネスチャンスと思い、
いろいろ調べ始めた。
何度も渡航を繰り返し、
思いのほかに時間はかかったが
何とか内装もでき設備も設置できた。
ところが、開設の許可が下りない。
大変な時間と労力とお金を費やしたのだが、
上海の医院開設はまずは失敗となった。
ただ機材は残っているのでこれをどうしたものかと思っていたのだが
浦東で新しい医院を作るという計画があり
ここに乗せてもらうことになった。
それが明徳五感科医院だ。
ここで紆余曲折はあったが
4年の契約であったので期間中は何とかがんばり、
ようやく満了となって契約を解除し現在(2010年2月)の金茂ビルのKOWA歯科に移った。
今年3月からはまた新しい常勤のドクターが入りこれからさらに充実していく予定だ。
ヘルスプロモーションとの出会い
さて、海外とか別ビジネスとかしているうちに
歯科の経営も大きく変化していること気付かされた。
東風会は予防を軸としてやってきたが、
それだけではなくて
コミュニケーションを重視した
ヘルスプロモーションを展開する定期管理型の医院が増えてきていたのだ。
さまざまなセミナーやお話などをお聞きするうちに医院改革をせねば、
そしてまずは自分が変わらなければという思いでいっぱいになった。
ここから今まで約6年の間にいろいろ変わってきたのだが、キーワードは3つある。
ひとつは「ヘルスプロモーション」
「人々が自らの健康をコントロールし改善できるようにするプロセス」
来院者と同じ目線に立ち、
来院者がより健康になっていくのを応援するのが仕事の中心と位置付けた。
健康をコントロールするということは生命、生活、人生をコントロールするということ。
それを支援するのが私たちの仕事。
そのために重要なのが「コミュニケーション」
来院者とスタッフ、スタッフとドクター
それぞれ良好なコミュニケーションがあって初めて有効に機能する。
その上質のコミュニケーションを確保するためには何をしたらいいのか?
これについては学ぶことがまだまだ多い。
そして「自律的に成長し続ける組織作り」
東風会という組織が
自ら学び変化し続ける組織に変えていくためにさまざまな試みをしている。
この数年はオープンでガラス張りの経営を目指している。
スウェーデンへ留学、本の出版
また技術面では
最新のインプラント治療をするため
スウェーデンのイエテボリ大学短期留学や
アストラテック本社での研修を重ね、
メデントインスティテュートのインストラクター、
歯科学研究所のインプラント認定医にもなった。
2009年には共著で
「最新インプラント治療2009」
を出版した。
その間、2009年に
訪問診療をメインとするグレイス・デンタルクリニックを岡山にオープン
2009年に倉敷駅前にデンタルサロン・ハビーナをオープン。
ここはCTなどの最新機器を備え
インプラントや矯正など高度な治療にも対応する一方、
ホワイトニングなど健康な人をより健康に美しくする
デンタルサロンとしての役割も果たしてくれている。
プライベート
プライベートな面で今までずっとやってきたものは、
スキー、テニス、マラソン、太極拳など。
いずれも細ーく長ーく、出来る時にやる程度。
ただマラソンだけは2009年ぐらいからやや本格的にやり始めた。
トレーニングするとそれだけ記録が伸びるのがおもしろい。
体重は10年前より10kgほど軽くなりだいぶすっきりした。
ホノルルマラソンは2001年に初参加。
2004年からは毎年参加している。
できれば海外のさまざまな大会に出たいものだ。
語学も趣味だがこれもラジオを聴くぐらいなので進歩はほとんどない。
中国語と英語ぐらいは不自由ない程度にしゃべれるようになりたい。
人生これからが本番~現在~
数年前からアンチエイジングに興味を持ち、
抗加齢医学会でも勉強している。
今年は認定医の試験を受ける予定。
いつまでも若々しく元気でいることを
自分から実践していきたい。
120歳まで生きるつもりなので
まだ折り返し地点まで来ていない。
人生これからが本番と思っている。